告白できなかったからといって、静の春花への気持ちが変わるわけではなかった。――俺が山名の分まで音大で頑張ってくる。ピアニストになってみせる音大に行けなくなったと泣いた春花にそう宣言した手前、頑張らない訳にはいかない。このもどかしくどうにもできない気持ちをぶつけるには、ピアノしかなかった。静にできることはピアノを弾き続けること。努力し続けること。静は大学で一心不乱にピアノに打ち込んだ。その甲斐あってか、静はめきめきと実力を発揮し、コンクールで何度も賞を取って順調に実績を積み重ねていった。静の初めてのコンサートは海外だった。決まったときはただただ嬉しくて、ようやくここまで来たのかと自信に満ち溢れた。「海外に来てとは言えないよな……」静はため息ひとつ、さすがに気が引けて春花にチケットは送らなかった。ここぞと言うときに遠慮してしまう悪い癖はなかなか直らない。あの時だって告白していたら……などと何度後悔したことだろう。「今さら遅いかもしれないけど……」自虐的に笑うと、自分の情けなさが露呈するようでなおさら落ち込んだ。もしも今後日本でコンサートを開催することがあれば、次こそは春花にチケットを送る。これ以上の後悔は重ねたくない。本当に、何もかも祈る気持ちだった。
日本の、それも地元で開催するコンサート開催を決めた静は、意を決して春花にチケットを送った。住所が変わっていたらどうしよう、ちゃんと届いたとしても果たして春花は来てくれるだろうか。これ以上後悔はしたくないと思いながらも不安はつのる。だが、それとは別に一歩踏み出した満足感もあった。やっとスタートラインに立てた気がしたのだ。自分が送ったチケットの席番号はわかっている。リハーサルのとき客席に下りて場所を確認し、舞台からもまた確認する。「……意識しすぎだろ、俺」自分の行動に思わず苦笑いをするが、それほどまでに春花を意識していることを改めて実感し、静の気持ちは益々高ぶっていった。 落とされた照明の中、静は春花を見つけた。はっきりとは見えないがそのシルエットだけで春花だと確信が持てる。チケットが届いたこと、春花が来てくれたことが、静の心を安堵と喜びで満たしていく。最高のパフォーマンスでおもてなしをし、春花への想いよどうか届けと願わずにはいられなかった。演奏を終えた静はジャケットだけ脱ぎ捨てると、慌てて出入り口まで走った。あわよくば春花と会いたい。そんな奇跡の再会を夢見るように、ひたすらキョロキョロと探し回る。と、ホールを出たところで一人歩く春花を見つけた。「山名!」静の声にビクッと肩を揺らし、春花は恐る恐る振り返った。「……桐谷、くん?」高校生の頃と全然変わっていない、いや、むしろ外見はとても綺麗で大人の女性になった春花に、静は胸がいっぱいになった。しゃべり方も穏やかで「桐谷くん」と呼んでくれることが何よりも嬉しい。まるで高校生の頃に戻ったかのように錯覚する。だが、ごめんと断りを入れて電話を取った春花の表情はずいぶんと強張っており、静は胸騒ぎがした。そして春花の口から「彼氏が……」と出てきたことに衝撃を受けた。「あはは、もう、困っちゃうよね。束縛なんてさ」何でもないように笑う春花は、音大に行けなくなったと告白した音楽室での出来事を彷彿とさせる。そんな春花を見たかったわけじゃない。幸せそうに笑う、天使みたいな春花を求めていた。五年も経てば環境も考え方も変わるだろう。それを差し引いたとしても、全然幸せそうじゃない春花の姿に静は激しく後悔した。なぜあの時告白しなかったのだろう、と。春花には笑っていてほしいのに。 俺のピアノで癒されるならいくら
◇甘く蕩けるようなキスは二人の失っていた時間を取り戻すかのように心に沁みて、そっと唇が離れた後も余韻が残っている。お互い顔を見合わせると、照れながらふふふと笑った。「ずっと好きだったんだ。だから春花に彼氏がいてどうしようかと思った」「私もずっと好きだったの。でも桐谷くんは雲の上の人だからあきらめてたの」「そんないいものじゃないよ」「ううん。すごいんだよ。……桐谷くんこそ彼女は?」「彼女?」「フルート奏者の人。芸能ニュースで見たよ」「ああ……。打ち上げがあって帰り一緒に帰っただけ。彼女でもなんでもないよ」「そっか」春花は胸を撫で下ろした。ずっとモヤモヤしていた気持ちは、静自身の言葉によって霧が晴れていくようにすっと引いていく。自分はまだここにいていいんだと安堵した。「だからさ、春花は出ていかなくていい。一緒に暮らそう」まるで心を見透かしたような静の発言は、春花の心臓をドキッと高鳴らせる。夢を見ているかのような展開に信じられない気持ちでいっぱいになり、春花は静に訴えた。「私の頬っぺたつねって」「ん? こう?」「……痛い」「えっ、ごめんっ! そんな強くつねったつもりじゃ……ごめん、大丈夫?」言われるがまま春花の頬をつねった静は、慌てて手を引っ込める。オロオロとし出す静に、春花は声を上げて笑った。「あははっ! 痛いから夢じゃないね!」「夢じゃないよ。驚かせるなよ」静は困ったように笑い、優しく春花の頬を撫でる。温かくて優しい手つきに、春花はうっとりと身を委ねた。「もう一回キスしていい?」「うん」甘く微笑んだ静に胸をときめかせながら、春花はゆっくりと目を閉じた。窓から差す木漏れ日は暖かく二人を包んでいるようだった。
穏やかに過ごしていたある日の閉店時、店長の葉月が春花にそっと耳打ちした。「山名さん、あの人知り合い?」「え、誰ですか?」「ほら、あそこ。さっきから店の前でスマホ触ってる男性。ちらちら店内窺ってるみたいなんだけど」ショーケースの陰からそっと覗いた春花は、その人物を見て一気に青ざめた。くらりと目眩さえ覚える。ドキンドキンと心臓が痛いほどに脈打ち、思わず胸元をぎゅっと押さえた。見間違えるはずがない。春花の元彼の高志だ。高志が店の前で待っているのは、明らかに春花であろう。別れを告げアパートを追い出されてから、高志とは連絡を取っていない。いや、正確には鬼のように着信はあったし、メッセージもひっきりなしに入っていた。着信拒否やブロック、そしてアパートの解約。モラハラ高志と決別するための手段は講じてきたつもりだった。「店長すみません。えっと、私の……元彼です。あの……、ちょっと話をしてきます」震えながら出入口に向かおうとする春花の腕を、葉月は慌てて引き寄せた。「待って。元彼が何の様? もしかして付きまとわれてるの?」「いえ、初めてです」「変に近づくと危ないわよ」「だけどきっと私に用があるんだと思います。あんまり良い別れ方、していないんです」「だけど山名さん、震えているじゃない。私が引き付けておくから、今のうちに裏から帰りなさい。あ、家もバレてる? よかったらうち来る?」「いえ、最近引っ越したので、家はバレてないと思います」「そう? それならいいけど。じゃあちょっと早いけど先に上がって。裏から出るのよ」「本当にすみません」「いいからいいから、ほら、早く。何かあったらすぐ電話するのよ」「はい、ありがとうございます」葉月は春花に何か指示するようなオーバーリアクションを高志に見せつけると、春花を裏口へ追いやった。
非常口である裏口からそっと外へ出た春花は、店の前を避けてそのまま駅まで走った。後ろは振り返らない。とにかく前だけ見て一心不乱に走る。いつどこで高志に気づかれるともわからない。背後から突然呼び止められるかもしれない、もしかしたら掴みかかられるかもしれない。高志に罵られていた日々がフラッシュバックする。会えばきっとまた怒鳴られるのだろう。そんな恐怖に怯えながら、マンションに着くまで気が気ではなかった。「はあっ、はあっ、」「おかえり春花。……どうしたの?」息を切らしながら玄関を後ろ手に閉めると、春花はズルズルとその場に座り込んだ。リビングから顔を出した静が慌てて駆け寄る。「大丈夫?」「……どうしよう」「どうした?」春花は静のシャツの袖をぎゅっと握る。その手がカタカタ震えていることに気づき、静は眉間にシワを寄せた。春花の手を取り両手で優しく包んでから、落ち着かせるように背中をそっと擦る。「落ち着いて、春花」背中を擦る手の動きに合わせて、春花は大きく息を吐き出した。恐る恐る静を見れば心配そうに寄り添ってくれている。静に余計な心配をかけてしまっている。だけど、頼れる人が側にいる。それだけでも以前とは比べ物にならないくらいに心が落ち着き、消えかけていた勇気が湧いてくるようだった。
できるだけ心を落ち着けて、先ほどあったことをゆっくりと話す。高志が店を覗いていたこと。たぶん春花に会いに来たこと。葉月がこっそり逃がしてくれたこと。途中震えてしまいそうになる春花だったが、静は急かすことなく春花の言葉に耳を傾けた。そして一部始終を聞いた静は怒りで震え、腸が煮えくり返りそうになった。大切な春花に身の危険が迫っている。それなのに自分は春花を守ることができなかった。怯えた春花は青白い顔をして今にも泣き出しそうだ。「……ごめん、何とかするから」気丈にも微笑もうとする春花を、静は叱り飛ばした。「そうやって抱え込むな。俺の前で強がったりするなって言っただろ?」厳しくも優しい言葉は、まるで春花を包み込むかのようにゆっくりと心に浸透していく。静に思い出されるのは音楽室での記憶。家庭の事情で音大に行けなくなったと静に告げたあの日、笑ってごまかそうとした春花に対して静は言ったのだ。『俺の前で強がったりするな』あの時だって春花は一人で抱え込んでいた。静は助けたいと何度思っただろう。今はあの時とは違う。大人になったのだから、きっともっと春花の力になれるはずだ。いや、むしろ助けなくてはいけない。「俺が助けるよ」「……でも、どうしたらいいんだろう?」高志のモラハラに耐えて耐えて、ようやく抜け出した道。勇気を出して別れを告げ、どうにか解放されたと思ったのだ。そしてやってきた静との幸せな時間。ようやく掴んだ幸せに亀裂を入れられたような、そんな気持ち。「大丈夫、一緒に考えよう」静は春花の手をぎゅっと握る。静の大きくてあたたかな手は穏やかで心地よく、春花の心を温かく包んだ。
春花を落ち着かせるため、静はコーヒーを淹れる。部屋に広がる香ばしい香り。あたたかなコーヒーをごくんと一口飲めば、静の優しさが体いっぱいに広がっていくような気がした。春花が落ち着いたことを確認してから、静が口を開く。「職場がバレてるのはやばいな。きっとまた来るだろう」「店に迷惑かけちゃう。今日も店長が助けてくれて……」「じゃあ仕事辞める?」「それはできないよ。店としては辞めた方がいいかもしれないけど、私についてくれてる生徒さんたちを見捨てることはできないの」「そうだな、ごめん。浅はかなこと言った。だけど春花に危害が及ぶ方が俺は心配だよ」「高志だってたまたま来てただけかもしれないし、何か私に話があっただけかもしれない」「春花、あいつにどんなことされてたか覚えてるだろ? 会ったらきっとまたその繰り返しだ」「そうかもしれないけど、だからって仕事を休むわけにはいかないよ」春花はたくさんのピアノレッスン生を受け持っている。春花のことを慕って毎週レッスンに来る生徒たちのことを思うと、まったくもって仕事を辞める選択肢は出なかった。一方でやはり高志の存在は恐怖の対象である。今までの経験上、会ったところでまともな話が出来るとも思わないし、そもそもなぜ高志が春花を待ち伏せしていたのか、目的もわからない。仕事を辞めたくない春花と、心配だから行かないでほしい静。お互い言葉は選んで話しているが、二人の話し合いは平行線を辿った。
やがて静が小さく息を吐き、眉を下げる。ふっと微笑んで春花を見つめた。「わかったよ春花。俺が毎日送り迎えする。そうしよう」「でもそんなの……」「迷惑じゃない。俺がしたいからするだけ」「……甘えてもいいの?」「むしろ恋人なんだから、もっと甘えてほしいんだけどな」「えへへ……難しいなぁ」静がそっと頭を撫でてやると、春花はほんのり頬を染めた。恋人に甘えること、そんなことはドラマや漫画の世界でしか見たことがなかった。むろん高志に甘えたこともない。毎日気を遣い高志の顔色を伺いながら生活をしていた春花にとって、他人に甘えるということは安易にできるものではない。甘えようものなら不機嫌になり、その場の気分で怒鳴り散らす高志に毒されていたからだ。そんな春花が高志のモラハラから脱出したいとなんとか正気を保っていられたのは、静の音源があったからに他ならない。静の存在にどんなに癒され助けられたことだろうか。それなのに恋人の静は、春花に「甘えてもいい」と言う。贅沢すぎる申し出に春花は萎縮するが、春花の意を汲み取った静は「いいんだよ」と優しく春花を抱きしめた。暖かいぬくもりに包まれていると、すーっと心が落ち着いていくのがわかる。春花は戸惑いながらも、愛されていることを実感して胸が熱くなった。「ところでさ、春花」「うん」「何で元彼のことは名前で呼んで、俺のことは未だに苗字なの?」「えっ?」「もしかして何も疑問に思ってなかった?」「だって桐谷くんは桐谷くんで、なんか慣れちゃってて……」「俺の名前知ってる? 静っていうんだけど」「し、知ってるよ!」「じゃあそういうことで、よろしく」「……せ、静?」「……」「な、何か言ってよ。恥ずかしいんだけどっ」口元を抑えて黙ってしまった静に、春花は真っ赤な顔で慌てて詰め寄る。「いや……」静は春花からふいと目をそらすと、「……可愛すぎてどうにかなりそう」とぼそりと呟いた。「え、えええ~~~!」お互い真っ赤な顔になりながら、恋人として一歩進んだことに胸をときめかせていたのだった。
「私の夢はピアノの魅力を伝えること。でももうひとつ、静が世界に羽ばたいている姿を見たいんです。わがままなことを言っているとは承知しているんですが……」時折言葉を選ぶように話す春花を見て、葉月は困ったように眉を下げた。「そうね、新規の生徒さんを頑なに入れないから、まあそんなことだろうとは思っていたわ。時間をかけて身辺整理をしていたんでしょう?」「いえ、まあ、残っている生徒さんには申し訳ないのですが」「それは仕方がないわ。こんなことを言ってはなんだけど、あなたの幸せが一番大事よ。私はこの先も辞めるつもりないし、新人も育ってきてる。レッスンのことは気にしなくていいわよ。それで、桐谷さんについていくの?」「いえ、私は遠くから見守るだけで十分かなって。寂しいですけど」てっきり静と結婚、もしくは将来を見据えて春花も海外に行くのかと思っていた葉月だったので、春花の言葉にポカンとしてしまった。理解が追い付かず目をぱちくりさせる。眉を下げながら困ったように微笑む春花。葉月はハッとなって、その肩をガシッと掴んで揺さぶった。「ちょっと待って! どういうこと? 別れたの?」「いいえ、まだ。でも静には私はいないほうがいいって思っています。彼の重荷になりたくないので」「重荷って……。それはあなた、思い詰めすぎよ」「そんなことないです。ずっと考えていたので……」
家に帰り一人になると、今日の葉月と記者の言葉が思い起こされて胸が潰れそうになった。明らかに静のスキャンダルを狙っているような質問に、春花は身震いして自分自身を抱きしめる。今日は葉月のおかげで引き下がったようだが、きっとまた来るに違いない。もしかしたら他の記者も来るかもしれない。そうなると、輝かしい静の活躍に自分のせいで泥を塗ることになるかもしれないという不安が渦巻いた。元カレである高志とトラブルになってしまったことで、こんなことになっている。この先、静にまた迷惑をかけてしまったらどうしよう。誰よりも静を応援し、誰よりも静を愛しているからこそ、春花は一人悩み落ち込んだ。そっと左手首を撫でる。もう完治しているはずなのになぜだかシクシクと痛む。静のことだけではない、こんな不安定な状態のままピアノを弾き続ける事にも違和感を覚えていた。「ニャア」「トロちゃん、どうしたらいいと思う?」猫のトロイメライは春花にすりすりと頭をこすりつける。「トロちゃんだけは私の側にいてね」頭を撫でてやると、トロイメライは春花の足元で寄り添うように丸まった。そして春花は決意した。翌日、春花は白い封筒を差し出す。「店長、あの……」「どうしたの?」「辞めさせていただきたいと思って。今回はちゃんと私の意思です」「山名さん……」「ずっと考えていたんです。ケガをしてから前みたいに弾けなくて、どうしたらいいんだろうって」春花は一呼吸置く。葉月は急かすことなく春花の言葉をじっと待った。
「以前、店の前で人が刺される事件があったのはご存じですよね」「ええ、物騒ですよねぇ」「ピアニスト桐谷静の恋人のことは知っていますか?」「ああ、話題になっていますよね、三神メイサでしたっけ?」「三神メイサとは別に恋人がいることはご存じで?」「えっ! 二股ってことですか! やだー」「この店には桐谷静のサインがたくさんありますね。以前彼が来たらしいじゃないですか」「ええ、そうですね、以前来ていただいたんですよ」「どういうツテで?」「それは企業秘密ですよ」「桐谷静の恋人がこの店で働いているから?」「んもー、記者さんったら誘導尋問がお上手だこと。ここだけの話、実は私が大ファンなので知り合いに頼み込んでもらったんですよ。あ、これ他の店には秘密ですからね。絶対ですよ。あっ! もしかして桐谷静の二股の相手って私なのかしら? だとしたら光栄だわぁ」葉月の明るい声と記者の愛想笑いはその後しばらく続いたが、やがて埒が明かなくなったのか、記者の方が根負けて「今日はこのくらいで……」などと言って帰っていった。「あー、しつこい男だった」ため息とともに仕事に戻った葉月は、高くしていた声のトーンを落とす。「店長、すみません。私のせいで……」「社員を守るのも上の仕事よ。気にしないで。それより桐谷静が二股してるとか、その相手が私だとか、嘘言っちゃったわ。ごめんね」「いえ、いいんです。ありがとうございます」葉月の温かさが嬉しくて春花は目頭をじんわりさせた。本当に、良い職場で働いている。自分の蒔いた種なのにこんなにも守ってもらって贅沢ではないだろうか。ありがたいと同時に申し訳なさが込み上げてきて、春花は胸が押しつぶされそうになった。
何もかも順調にいっていると思っていたある日のこと。「すみません」レジで作業をしていた春花は声をかけられ顔を上げた。「はい、いらっしゃいませ」「以前、店の前で人が刺される事件がありましたよね。そのことについて少しお伺いしたいのですが」「えっと……」戸惑う春花に名刺が差し出される。 ぱっと目を走らせると、有名な雑誌社の名前が印刷されていた。「桐谷静の恋人と元彼がトラブルになったことを調べています」「えっ……あの……」ドキンと心臓が嫌な音を立てる。 この記者の目的は何だろうか。ドキンドキンと大きな不安に押しつぶされそうになり、言葉を飲み込む。 春花が何も言えないでいると、様子に気づいた葉月が横からすっと割り込んだ。「お客様、そういったご用件は店長である私がお受けいたしますので、従業員に聞き込みするのはやめて頂けますか? うちも商売なので、他のお客様に迷惑になる行為はやめていただきたいんですよぉ」「ああ、これは失礼しました。では店長さんにお話を伺っても?」「ええ、どうぞ。ではこちらに」葉月はスムーズに人気のないレッスン室の方へ誘導する。ドキドキと動悸が激しくなる春花は、一度大きく深呼吸して気持ちを落ち着ける。葉月と雑誌の記者の話が気になり、こっそりと聞き耳を立てた。
静は単独公演のみならず、三神メイサとのデュオでも大きな実績を上げた。国際コンクールにおいて優勝し、世界の舞台で通用する演奏家として名を馳せたのだ。静とメイサ、二人の偉業は大きく、連日ニュースが飛び交う。『静とは初めて演奏したときから運命を感じていました。これからも長い付き合いになると思います』カメラ目線で自信満々にコメントするメイサに、数々のフラッシュが飛び交う。『桐谷さんも一言コメントをお願いします』『そうですね……。このように受賞できたこと、光栄に思います』二人が微笑み合う姿は多くのメディアに取り上げられ、SNS上では「お似合いの二人」とまで囃し立てられていた。そんなものを目にしてしまった春花はドキンと心臓が変に脈打つ。静とメイサがそんな関係ではないことはわかっているし、静からもいつだって「愛している」と連絡が来る。もちろんその言葉を信じているのだが、さすがにこれだけ話題になると精神的に響くものがあった。「静、おめでとう! ニュースで見たよ!」『ありがとう。春花に一番に伝えたかったけど、メディアに先を越されたな』「それは仕方ないよ。今や日本を代表するピアニストだね」『まだまだこれからだけどね。でも一歩踏み出せたかな』「これからどんどん有名になるんだろうね。なんだか静が遠く感じられるなぁ」『俺はいつだって春花の元に飛んでいくよ』「そういう意味じゃなくて、雲の上の人ってことだよ。本当に、おめでとう。店長なんて大盛り上がりでCD平積みしてたよ」『日本に帰ったらお礼しに行かないとね。春花ごめん、今から祝賀会があるんだ。また連絡するから』「うん、わかった」『春花』「うん?」『愛してる』「私も、愛してるよ」電話越しの静はいつも通り優しく穏やかで、モヤモヤしていた春花の心もすうっと晴れていく。声を聞くだけで安心できるなんて、単純極まりない。そんな自分に春花はクスクスと笑った。
静は海外へ、春花も職場復帰し、いつも通りの日常が始まった。寂しさや物足りなさは密な連絡を取ることで回避され、お互い順調なスタートを切っていた。「山名さん、ニュース見たわよ! さすが桐谷静!」「はい、ありがとうございます!」二ヶ月が過ぎた頃すぐに大成功をおさめたニュースが飛び込んできて、恋人の活躍に春花は誇らしい気持ちになった。店に静が来訪してからというもの、社員たちの桐谷静推しも増している。やはり静が海外に行くことは正しかったのだと、証明しているようだった。「そうそう、山名さん。新規の生徒さんが入りそうなんだけど、受け持ってもらえない?」「すみません、ありがたいお話ではあるんですけど……」「まだ手首に違和感があるの?」春花が無意識に押さえた左手首を見て、葉月は心配そうに尋ねる。「そう……ですね。申し訳ないです」「ううん、いいのよ」「はい、ありがとうございます」春花は申し訳なく眉を下げた。捻挫した左手首はもうすっかり治っている。痛むこともなければ何かに不自由することもない。元通りの状態だというのに、ピアノを弾くときだけほのかに違和感を感じていた。「はぁー」無意識に出るため息は、春花の心をモヤモヤさせる。日々の生活に不満はないのに、なぜこんなにもやるせない気持ちになるのか。「静、頑張ってるなぁ」遠く離れた恋人を想いながら、春花はレッスン室に入っていった。
「私は十分幸せだよ。それより私のせいで静がピアノを弾けない方が嫌だよ」「ピアノなら国内でも弾けるよ。それに俺が海外公演に行ったら春花を守ることができなくなる」「大丈夫だよ。高志は逮捕されたし、私だってそんなに弱くないのよ」「……俺に海外に行けって言ってるの?」まるで運命のように再会してこうして恋人にもなれた。静にはたくさん助けてもらった。今度は春花が静を応援したい。好きなピアノを好きなだけ弾いていてほしい。「私は夢を追いかけている静が好きだよ。私のせいで静が小さな世界にいるのは嫌なの。だから遠慮なく行ってきて。これはチャンスなんでしょう?」春花の口からペラペラと出てくる言葉は嘘偽りない。静にはもっと自由に羽ばたいてほしいと願っているからだ。そして春花自身も、前に進みたいと思っている。静や葉月に守ってもらってばかりではなく、自分の力で未来に向かって進んでいきたい。そう心から思えるようになったのは、やはり静のおかげなのだ。「ねえ、春花の夢はなに?」「うーん、たくさんの人にピアノの魅力を伝えること、かな。静の夢は?」「……ピアノで世界中の人を魅了すること」「だよね。行きたいんでしょう? 行ってきなよ。やらずに後悔しないで。私も静が世界に羽ばたく姿、見たいな」「春花、一緒に……」「一緒にはいかないよ。だって私にはたくさんの生徒さんがいるんだから」ニッコリ笑う春花が眩しくて、静の方が胸が苦しくなる。思わず彼女を引き寄せてかたく抱きしめた。夢と現実は相反する。 手の届く温もりを手放すのは勇気がいるし、それと同様に、抱いてきた夢を諦めるのも勇気がいる。どちらが正しいかなんて誰もわからない。お互いの見据える先は果たして同じ方向を向いているのだろうか。二人が決めた道は未知の世界だった。
◇ 「春花、どうした?」リハビリがてら家でピアノを弾いていた春花だったが、曲の途中で手が止まり、すぐそばで聴いていた静が声をかける。「ううん。何でもないよ」フルフルと首を横に振るが、捻った左手首が思うように動かせず先ほどから納得のいかない演奏に気持ちが沈んでくる。「少しずつだよ、春花」察して静は春花の左手首を優しく撫でる。その心遣いが優しすぎて春花は胸が苦しくなった。いつだって静は春花を優先する。ピアノのリハビリもずっと付き合ってくれている。静だって次の公演に向けて練習をしなくてはいけないはずなのに、「俺はいいから」と身を引くのだ。そんな優しさが、かつての自分を見ているようで苦しい。そんなに気を遣わなくていいのに。 もっとわがままになってくれていいのに。「ねえ静、海外公演を断ったって本当?」「春花、その話どこから……?」「やっぱりそうなの?」「いいんだよ、それは。別にピアノなんてどこにいても弾けるだろう?」「でも夢なんでしょう? 世界中の人を魅了するのが静の夢」核心を突くような言葉に静は息を飲んだ。だがすぐに首を小さく横に振る。「俺の今の夢は春花を幸せにすることだよ」優しさが一層春花の胸を締めつける。それはそれとして静の本心なのだろうと思う。だがその言葉の裏にはやはり自分の感情を押し込めていると思わざるを得ない。静は誰よりも努力家で誰よりもピアノが好きで、もっと世界に羽ばたきたいと願っている。ずっと近くで見てきた春花だからこそ、わかるのだ。
三神メイサの言葉がぐるぐると巡る思考の中、春花の頭の中には高校生の時の静の言葉がよみがえる。『俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ』そう言った静はキラキラと輝いていた。春花はそんな静を応援したいと心から思っていたのだ。(ああ、そうだった。静の夢は世界に羽ばたくピアニストなんだった)そう思った瞬間、春花の心の中にあった何かが崩れ落ちた気がした。静とは一緒にいたい。ずっとずっと好きだったのだから。 ようやく手に入れた自分の居場所。これからも大切にしたいと思っているのに。 自分が愛されている、守られていることをひしひしと感じる幸せな今の生活。でもそれはすべて静の夢を犠牲にして成り立っているという現実。もし静が海外にいったらどうなるのだろう。 もっともっと有名になったらどうなるのだろう。平穏が変わってしまう事を考えると怖くてたまらない。静がいない生活なんて考えられない。でも……。 だからといって、自分のために夢を犠牲にするなんてことはしてほしくなかった。一緒に音大にいけなかった、ピアニストの夢をあきらめた春花にとって、今でも静の夢には全力で応援したいと心から思う。それが春花の夢でもあるからだ。(私なんかのために夢をあきらめちゃダメだよ)込み上げる涙を我慢して、春花はメイサの元を去った。